レポートは学習会の講師、手島先生。
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学習院女子大学で開催された、私立中学による女子校アンサンブルは今年で11回目になります。例年通り参加校は9校で、五十音順に、跡見学園、学習院女子、恵泉女学園、香蘭女学校、実践女子学園、東京女学館、東洋英和女学院、三輪田学園、山脇学園の各校です。
プログラム内容は、各校のミニ説明会(各15分×計3回)。それと同時並行で、個別相談会および学習相談会や基調講演会が開かれていました。この報告では、各校のミニ説明会の中から、特に目についた内容についてご紹介いたします。
全体を振り返って
今年は、建学の理念や教育目標といったお話に加えて、子ども達と他者との関わり、また子どもたちの自信、自己肯定感といった課題に言及されていた学校が多かったかなと思います。
他校の説明会報告でも書きましたが、「自己肯定感」というキーワードは、この女子校アンサンブルでも毎年のように取り上げられます。揺れ動く思春期、自分探しをしていくこの時期に、子ども達が様々なチャレンジをしていく土台となるもの、ひるみそうになる背中を押してくれるもの。それがこの自己肯定感なのかもしれません。
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まずは跡見学園。
今回は本校の創立者である跡見花蹊先生と本校の教育理念についてお話しさせていただければと思います。
跡見花蹊は大阪にあります木津村というところの郷士の家に次女として生まれました。跡見家は代々木津村の郷士ということで名主などもつとめていた、また姉小路家という公卿の執事のような役目もつとめていた勤皇の家系なのですが、花蹊が生まれたことには没落してしまい生活は苦しかったようです。そこで彼女は12歳の時から絵の勉強を始め、17歳になるとに単身京都に留学して19歳まで暮らし、絵の勉強に加えて、漢学(四書五経などの漢籍)を学びました。当時、女性が学ぶ学問といえば和学(和歌など)が一般的で、漢学は男性が学ぶべきものとされていました。しかし花蹊は、貧困にあえぐ跡見家を何とか立て直したい、その思いもあって宮原節庵という人に師事して学問にはげんだわけです。
そして19歳になった時に大阪にもどり、父とともに私塾を開きます。この年、江戸では福沢諭吉が後の慶応義塾の母体となる塾を開いています。跡見学園は現在ある私学の中では最古の学園ということができます。その後、花蹊は明治維新の激動期である1870年に東京に移住し、引き続き塾を開きます。維新の頃の東京には新政府の設立に伴い多くの人々が地方から移住してきましたが、そこにはそんな人々の子弟も含まれておりましたた。花蹊はそこで地方から上京してきた女性たちの教養の低さを目の当たりにして、女子教育の必要性を痛感したのです。それまで開いていた私塾という形から、学校としての跡見学園が開設されたのは1875年のことになります。
それでは花蹊はどのような教育を目指したのか。跡見学園の教育理念は「目と手と心」です。物事の真善美を見分ける「目」と、情報発信のツールである「手」。そして、それらを司る「心」、人となりのことです。これらを兼ね備えた女性を育てることで、日本の新しい国づくりを支えようというのが花蹊先生の目指す教育でした。これを現代風に言い換えるなら、情報をインプットし、またアウトプットできる能力と、それをコントロールできる心の育成となるでしょう。跡見学園ではそのような教育を目指しています。